題: 『今日も一日』
広島市の西の外れにある私の家の裏に『鈴が峰』という
海抜にして300メートルちょっとの小高い山があります。
天気がいい日には毎朝、私はこの山の中腹にある公園まで歩いて
上がって来ます。少々早足で、公園までは約30分の道のりですが
退職して時間に縛られない毎日
公園にたどり着く頃日の出を拝める様《自然の時の刻み》に
合わせて家を出ますので、夏と冬では自ずと
《時計の時間》は違って来ます。
この公園の展望台に立つとまさしく180度の大パノラマが開けていて
左手に広島の市街が拡がり、正面には墨絵のように幾重にも
重なりあった島々を包む様に瀬戸内の静かな海が横たわり
続いて右に目を移すと、まだ目の覚めないうずくまった姿の安芸の宮島と
その先に大竹の町並みがかすんで見えます。
時には西の空に白い姿の残月を見ることもあります。
毎朝ここまで上がって来ると、私は先ず左からゆっくりと正面、そして
右へ景色を確かめる様に視野を流して行き
『ああ、今日もこうして来られたな』と《幸せ》をかみしめます。
目の前に開けた海に浮かんだ幾艘かの小舟から
チカチカ漏れて来る漁火、その間を縫って出ていく舟
帰ってくる舟の航跡が、黄金のキャンバスの上を走る絵筆のように
一幅の素晴しい抽象画を描いて行きます。
厳寒のこの時期には街のあちこちからゆっくりと立ちのぼる
白い煙が夜明けの始動の《のろし》の様でもあり
眺めていると寒さで肌が一層引き締まる思いがします。
目を下にやるとテールランプ、ヘッドライトがひっきりなしに行き交い
一日がもう始まっているその鼓動が伝わって来ます。
こうした情景をしばらく眺めていると
空も海も一層黄金色が増して来て、ヘッドライトも次々と消えて行きます。
やがて日の出。『今日も又一日が始まったな』と
私は朝日に向かってちょこっと会釈をして山から下りて来ます。
そして下りる道すがら、以前勤めていた会社で
現場の人達が毎朝ミーテイングで唱和していた言葉が頭に浮かんで来ます。
「今日も一日ご安全に」。
[添付スケッチ] 日の出前の広島湾
( 新井口、やす )