ひろしま漫歩
井口峠(西区)

西国街道の面影を訪ねて

 JR新井口駅をまたぐ鈴が峰陸橋下から南西へとつづく幅4、5mの狭い道は江戸時代には西国街道とよばれていた。
 その道を駅から約600メートルほど進むと古いお寺が見えてくる。江戸中期の絵師・岡岷山の紀行文「都志見往来日記・同諸勝図」の中で「井ノ口」の勝景図に描かれている正順寺である。
 かっては海辺であったため、波に洗われ角のとれた大きな石垣が今も残されている。
 
寺の西隣には、旅人が旅の安全を祈願したといわれる地蔵と幅1、2mほどの急峻な坂道が見える。西国街道の難所のひとつとして知られていた井口峠への登り口である。
 江戸時代、参勤交代にも利用されていた西国街道は、現在の国道2号に沿ってほぼ並行して走っていた。広島城下から西への街道は己斐、草津へと進み、井口に入ってからは、鈴が峰からのびる尾根の先端にあたる龍神山の井口峠を越える本道と、海岸のせまった断崖絶壁の下を干潮の時だけ通れた浜伝いの近道があった。
 「おいはぎ」も出没したといわれる井口峠も、明治9年には海沿いの道が整備され、物資の輸送手段が人肩馬背から荷車・馬車に移ると、通行は次第に途絶えその役割を終えることとなる。
 登り口から山腹の南側に沿って荒れた道を登ると標高58.9mの龍神山頂上付近にでる。ここからは瀬戸の海が望め、岷山が「子乞の山
(小己斐明神の小島。現在、西区井口明神1丁目にある小山のこと)、海にそばだち、厳島、津久根の島々南の海上に浮かび風景いわんかたなし」と記した、潮風薫る古の景観日が想像できる。
 山頂から南西へは井口小学校や団地ができて、昔の街道の道筋すらたどることは難しくなっているが、小学校の体育館裏にはかつて街道筋にあったという「首なし地蔵」が戦後新しくつくられた地蔵の横に置かれている。
 団地内の尾根筋を進み井口公民館付近から曲がりくねった坂道を下ると、かつての浜伝いの道と交わる。そこでふと立ち止まると、薬局の店先に古い松の幹の一部がある。聞けば、昭和58年まで残っていた街道松の名残りとして保存しているという。 正順寺から約1キロの峠越えののち、開発の中でも大切に守られてきた街道の面影は、鈴峯女子学園の南側を通り、さらに西へとつづいていく。
                                (公文書館 稲葉)
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