ひ ろ し ま 漫 歩

太田川の中州

北大橋上流にて


基町高層住宅の北側、北大橋の上流に”無人島”がある。
人工美の中の小さな自然だ。

その姿は、デルタ広島の原初をしのばせてくれる。
デルタが形成され始めたのは、およそ4300年前からといわれている。
現在の都心部にあたる地域が海上に姿を見せ始めたころ
中州はいくつもあったに違いない。

九州探題、今川了俊の紀行「道ゆきぶり」に、広島デルタを歩いて渡った
最初の記録を見ることが出来る。時に、1371年9月19日。
今から六百余年前のことだ。

古代より山陽道は、海田から山手に入っていたが
このころ旅行く者は、多く潮干の道を通っていたのだろう。

大正のころ、中州は、野球ができるほど広かった。
花見時の中州は、楠木側、長寿園側両岸の桜を見渡せる一等地であった。
いつもは中州の川砂を採っている川舟が
この時ばかりは臨時の渡し舟となった。

歌人、近藤芳美は、旧制広島高校の生徒だったころ
町中からボートでこぎ上がっては中州の砂の上に寝ころび、
文学と人生を日没まで友と語り合ったという。

4300年かかって広島デルタが形づくられる中で、この中州は、
ビルが林立する所とは、ついに成り得なかった。

そのことが、辺りをのびやかな空間につくりあげている。

中州は、四季折々にそれぞれの表情を見せ、人々の心を和ませる。

(公文書館)

 

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