草津(西区)
旧街道が東西に走る町
 西区草津には、古い町屋や昔ながらの入り組んだ路地が今も見られる。
この町は原爆による建物被害がかわらやガラス窓の破損にとどまったため、
かつての町の面影が今に残ったのである。


 江戸時代、海に面していた草津は港町として栄えた。港には藩内の物産
が集まり、大坂(現在の大阪)をはじめ各地に積み出されていた。
また、現在の国道2号に平行して走るかつての西国街道が町の東西を貫き、
広島と廿日市の間の宿
(あいのしゅく)としてもにぎわいを見せた。
 当時、草津の町の長さは東西に4町6間(約447メートル)、200軒余り
の家があったという。
江戸中期の絵師・岡岷山の紀行文「都志見
(つしみ)往来日記・同諸勝図」には、
びっしりと家々が立ち並ぶ草津が描かれている。
 草津に往時の町の面影を探してみた。広島電鉄宮島線の草津駅から、
山手に少し進むと、かつての西国街道に行きあたる。
街道を東へ約100メートル歩いたところにある鷺森神社辺りが、江戸時代の
町の東端だ。
 西国街道を西に向かって歩いてみた。右手に見えてくる、かわらぶきの
重厚な構えの家屋とその背後に立ち並ぶ土蔵。清酒「御幸」の醸造元だ。
「御幸」の酒名は、かつて広島を訪れた明治天皇が、ここでひとときの休息
をとられたことから、名付けられた。
 街道をさらに西に進むと、古い町屋が続いている。稲荷神社を通り過ぎ、
左手の路地を一歩入ってみた。入り組んだ路地が張り巡らされ、家々が
肩を寄せ合うように立ち並んでいる。車の往来もなく、のんびり時間がすぎて
ゆくような空間だ。この路地は「芸藩通志」にある草津村の図にも記されている。
その位置は現在の地図と比べてもそれほど変わっていない。
 再び西国街道に戻り、さらに西に進むと、左手に古くから共同の井戸としての
役割を果たしてきた「大釣井
(おおつりい)」がある。この辺りが江戸時代の町の西端だ。
 街道を歩いてみると、当時の旅人になったような気がしてくる。かっての町
のにぎわい・・・。
草津は、昔の面影を残す、広島では数少ない町の一つである。
                (郷土資料館 石本)

           

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